伊東甲子太郎は坂本龍馬の暗殺と関係していたのか?

新撰組を脱退して御陵衛士の盟主となった伊東甲子太郎と坂本龍馬、両者とも慶応3年11月に暗殺されました。

実はこの二人の暗殺には関係があるのではないかという、興味深い説があります。

ここでは二人の暗殺の関係性についてご説明します。

伊東甲子太郎が坂本龍馬暗殺の黒幕だった説

慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋において、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される事件が起こりました(近江屋事件)。

実行犯は諸説ありますが、現在では京都見廻り組の仕業だったという説がもっとも有力です。

しかしその当時は、佐幕派だった新撰組の関与が疑われました。

龍馬暗殺の半年ほど前、伊東甲子太郎は薩摩藩の監視と御陵の警備という名目で新撰組を離脱し御陵衛士を結成します。

伊東甲子太郎は御陵衛士と(勤王)として活動を始め、坂本龍馬の側近である中岡慎太郎に近づいていきます。

そして、「新撰組が坂本龍馬の命を狙っている」と忠告をしたとされています。

しかし龍馬は「生死は天命にある」としてこれを聞き入れませんでした。

龍馬にしてみれば、佐幕派である新撰組で活動していた者が、急に勤王派になった伊東甲子太郎が信用できなかったという考え方もできます。

自分の進言を無視され、坂本龍馬や中岡慎太郎と友好を深めることが叶わなかった伊東甲子太郎、その伊東甲子太郎が薩摩藩の知遇を得るために龍馬暗殺を企てたのではないか、という興味深い説も存在するのです。

伊東甲子太郎と坂本龍馬の暗殺、後に繋がるもう一つの関係性

伊東甲子太郎の暗殺は慶応3年11月18日、その日は11月15日に暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎の葬式の日でした。

そのため、土佐藩士が中心となり暗殺の犯人を捜索している真っ最中でした。

油小路事件で伊東甲子太郎以下数名の御陵衛士は暗殺されましたが、数人は逃亡し、薩摩藩邸にかくまってもらいました。

これは、元々薩摩と関係があったとも、たまたま飛び込んだ場所が薩摩藩邸だったともいわれています。

この時生き残りの御陵衛士が、新撰組が坂本龍馬の暗殺を計画していたと話し、それを聞いた土佐藩が、近藤勇率いる新撰組が坂本龍馬暗殺の犯人だと思い込んでしまうのです。

そこで土佐藩、特に谷千城という人物が近藤勇だけを追うという見込み捜査に走ってしまうのです。

これが、龍馬暗殺の本当の犯人が、現在でもはっきり特定できていない大きな理由の一つとなっているとされているのです。

そしてそれは、その後戊辰戦争で近藤勇が捕縛された時に、薩摩の近藤への助命嘆願を無視して、谷千城が処刑を決定することに繋がっていくのです。