京都へ上がって初めての地、壬生の八木邸での芹沢鴨の行動がすごい?!

芹沢鴨とは、新撰組の初代筆頭局長で、その傍若無人さでわずか半年で近藤勇らに粛清された人物です。

ここではその強烈なキャラの芹沢鴨が、上洛後に寄宿した八木邸で起こした騒動の数々をご紹介します。

芹沢鴨の出自と新撰組結成まで

芹沢鴨は水戸藩(現在の茨城県)の芹沢村出身です。

本名は下村嗣次で、芹沢村出身ということで芹沢鴨と名乗ったとされていますが、詳しい史料は残っていません。

芹沢鴨は新撰組として活動する前は、「天狗党」という愚連隊のような団体に属していました。

天狗党は、尊王攘夷を掲げて町でお金を巻き上げたり暴力を振るうなどの狼藉を重ね、幕府に捕縛されてしまいます。

しかし政府の世論が変わったことで下村嗣次らは数年後に釈放、そして水戸藩を脱藩することとなります。

そして江戸での清川八郎による将軍警護の浪士募集に、芹沢鴨と名を変えて同郷の新見錦らと共に参加しました。

そして今日へ向かった一行でしたが、実は清川八郎は、将軍警護のためというのは偽りで勤皇の志士として浪士隊を募ったということがわかりました。

そして浪士組は意見が分かれ、江戸へ帰る者と京都に残って当初の目的である「幕府の将軍警護」に就くものの二つに分かれます。

芹沢鴨や近藤勇は京都に残留し、この者たちが後に新撰組となるのです。

京都壬生村の屯所での芹沢鴨

芹沢鴨一派と試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司らは、共に壬生浪士組に属することになるのですが、芹沢派は八木邸にそして近藤派は前川邸に拠点を構えることになります。

そして隊の役職が決められました。

・筆頭局長、芹沢鴨
・局長、新見錦・近藤勇
・副局長、土方歳三・山南敬助

芹沢鴨は筆頭局長に選ばれるくらいリーダーシップのある人物ではあったと思われますが、何しろ酒癖が悪く乱暴者。

上洛する途中も酒を飲んで、宿で騒いだことが問題になったとも伝えられています。

上京した後は、すれ違った力士が道を譲らなかったことに腹を立てた芹沢鴨が乱闘騒ぎを起こし、力士側に死傷者が出ました。

資金調達と称して商家から金を強奪したり、家に火をつけたなどの狼藉も伝えられています。

また、懸想した芸妓が振り向かなかったことに対して激怒し大暴れし店を破壊すると脅し、置屋の人や芸妓まで詫びを入れさせたなど、たびたび騒動を起こしました。

そしてその乱暴狼藉によって、朝廷から近藤勇らに逮捕命令が出て芹沢鴨暗殺になったと伝えられていますが、その経緯の詳細は残っていません。

芹沢鴨の人物像

芹沢鴨は常に「盡忠報國の士・芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていたといわれており、酒豪で酒を切らすことがなかったと伝えられています。

しかし芹沢鴨は、寄宿している八木邸の娘が亡くなった時には、近藤勇と共に帳場に立ち進んで葬儀を手伝ったり、子供達に面白い絵を描いて遊んでやったりしたという話も残っています。

おそらく今でいう「酒乱」で、酒を飲むと人が変わったように乱暴になるタイプの人物だったのではないかと推測されます。

壬生邸で芹沢鴨と関わった人物は「酒さえなければ…」という話を良くされていたという話も伝わっています。

新撰組を「ヒストリー」から「ストーリー」に仕立てるためには、悪役としての芹沢鴨の存在が必要だったのではないかと考えられます。

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