新政府軍に敵対し、戊辰戦争で数々の戦闘を繰り広げた新撰組の斎藤一は、後に薩長主体の新政府政権下で警察官になりました。
ここでは、新政府下でなぜ斎藤一が警察官になれたのか、そしてなぜ斎藤一は警察官になろうとしたのかをご説明します。
斎藤一が警察官に就任したころの時代背景
戊辰戦争で新政府へ徹底抗戦して戦った斎藤一は、会津藩の降伏によって捕虜となり、後に越後高田で謹慎生活を送りました。
その頃の日本は、明治維新によって新しい政府が発足したものの、方針の違いによって薩摩藩の西郷隆盛らが新政府体勢から脱退しました。
大きな力を持つ西郷隆盛が薩摩へ帰り、いつ反乱がおきてもおかしくない状況の上、政治的理由や予算の関係で軍備を増強できなかった明治政府は、戦闘要員としての人材が欲しかったと考えられます。
そこで新政府は、実戦経験豊富で精強、そして忠実な旧会津藩士の士族達に目をつけたのです。
本来なら戊辰戦争で敵対していた人間を自軍に入れるのは危険だと思われますが、実は旧会津藩士たちは薩長に対しては反感を抱いているものの、天皇に対しては忠実だったのです。
実際に、旧会津藩の士族たちは朝敵という汚名を挽回したいという希望もありましたし、自分たちを貶めた薩摩に対して一矢報いたいと考えていました。
その中の一人が斎藤一でした。
改名して警察官になった斎藤一
斎藤一は他の会津藩士たちと謹慎生活を送る間に、松平容保が仲人となり、高木時尾という女性と結婚しました。
斎藤一と名乗る前にも改名したとされている彼ですが、この結婚を機に、時尾の母の実家・藤田家の名を借りて、藤田五郎と改名しました。
そして、旧薩摩藩士が薩摩に帰ってしまったために警察官不足になってしまった政府が大量に警察官を募集したのに応じて「青森県士族・藤田五郎」として警視庁の巡査となりました。
旧会津藩士族は即戦力になる人材が多かったので、政府としては願ったり叶ったりだったのです。
また、現在のように戸籍も整っておらず、改名も簡単にできた時代ですし、写真などもほとんど存在せず情報伝達の方法も確立されていなかったので、青森県士族・藤田五郎が元新撰組の斎藤一であったことがバレていなかった、という説もあります。
しかしその一方、藤田五郎が元新撰組の斎藤一であったことは、警視庁では公然の秘密だったとも伝えられています。
というのもその時代には、政府高官たちにとって底辺の巡査である藤田五郎の存在は、元新撰組であったにせよ、すでに脅威ではなかったとも推測されます。
斎藤一が警察官になった理由
まず、斎藤一がこれまで剣術に生きてきて、他に生活していく方法が見つからなかったということがあげられます。
警察官は公務員であり、失業していた身には薄給でも定収入がある巡査でも有難かったのです。
そして、警察官になれば得意とする剣術で薩長を公然と成敗できるという、思想的なものも理由になったと思われます。
実際斎藤一以下旧会津藩士たちは、警官隊として西南戦争では大きな戦力となりました。
内務省警視局の警部補となった斎藤一も、小隊長の大義を負いつつ西南戦争に参戦して大いに働いたと伝えられています。