新撰組の中で最強の剣士は誰だったのか、様々な説があります。
「無敵の剣」とといわれた斎藤一の腕前は実際はどうだったのか、ここでは伝えられている史実や斎藤一の剣術にまつわる逸話をご紹介します。
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」
新撰組は、局長である近藤勇以下剣術に長けた人物が集っていましたが、その中でも斎藤一はトップ3に入るほどの腕前だったと伝えられています。
様々な文献や口述が残っていますが、それを総合すると、沖田総司・斎藤一・永倉新八の名前が多く登場します。
沖田総司は天然理心流免許皆伝者で、道場での竹刀剣術のみならず実戦でも強かったとされています。
元々斎藤一は、「無外流」という剣術の使い手で、近藤勇が道場破りに対しての用心棒として雇ったのが初めだったと伝えられています。
近藤勇の道場の生え抜きである沖田総司と違い、斎藤一はいわゆるアウトロー、その強さは沖田総司らとは少し違う形だったのではないかと思われます。
「斎藤は無敵の剣」とは、こちらも剣豪とされている永倉新八の言葉です。
永倉新八自体、新撰組のトップクラスの剣術での実力を持つ人物ですので、その言葉が本当なら斎藤一の剣術は相当のものだったと推測されます。
また「無敵」というのは、数々の戦闘の中で他の隊士たちが怪我をしたにも関わらず、斎藤一が一度も怪我を負わなかったことに由来するという説もあります。
斎藤一の剣術に関する逸話
斎藤一は無口で普段はおとなしい性格でしたが、酒が入ると人を斬りたくなる衝動が芽生える、という逸話が残っています。
ニコニコと笑っているかと思えば、次の瞬間凄まじい剣術で斬りつけてくるなどという話も伝わっており、これも斎藤一の伝説の一つです。
斎藤一は目つきが鋭く、剣を持つ斎藤一は実に武人らしく隙がなかったともされています。
これは後に子孫によって伝えられた斎藤一像ですが、亡くなる直前まで武人としての姿勢は崩しませんでした。
真偽は定かではありませんが、逆に若いころは酒や女にはだらしなかったという説もあります。
また、海援隊の残党から紀州藩士を警護した際に、わざと酔ったふりをして敵を油断させるという作戦にも関わらず、本当に酔ってしまったという逸話も残っています。
ただ、己が信じる「正義」に対しては忠実で、新撰組内の汚れ仕事も担当しており、正しいと思えば仲間でも躊躇なく斬ったとされています。
新撰組の隊規に反した者への粛正も、斎藤一が請け負ったものが数多くあったとされています。
沖田総司や永倉新八ら他の新撰組隊士が活躍し有名になったのは、全盛期である池田屋事件前後ですが、実は斎藤一が一番活躍したのは新撰組解散後の会津藩士となってからです。
そして一番人を斬ったのも、会津戦争で最後まで戦い、西南戦争で警察官として出撃した時と記録に残っています。