「魁先生」と呼ばれた藤堂平助、その剣術の腕前とは?

新撰組・近藤勇の四天王とまで呼ばれた藤堂平助は、若くして新撰組八番隊組長を務めた人物です。

ここではその藤堂平助の人物像と、剣術についてご紹介します。

血気盛んな「魁先生」

藤堂平助は勇猛果敢な性格で、戦闘の際には誰よりも先に敵に向かっていったことから「魁(さきがけ)先生」と呼ばれていました。

新撰組や京都見廻り隊の中では「死番(死に番)」というものがあって、それは巡回の際に先頭を歩く者のことをいいます。

隊士達は裏の路地までくまなく巡察して回りましたが、京都の裏路地は狭く暗いので、いつ不意打ちに合うかわかりません。

また、「ご用改め」では敵が潜んでいる場所に踏み込むのですから、先頭の者が一番、物陰から斬りつけられる危険性が高いのです。

死番は、敵が大勢であっても怯まずに切り込んでいかなければならない、最も「死」に近い役割なのです。

藤堂平助は、その死番になっても怯まずに常に突っ込んでいった、そこから魁先生というあだ名がついたとも伝えられています。

池田屋事件の際も、藤堂平助は自ら先頭に立って斬り込んだという記録が残っています。

藤堂平助の剣術

藤堂平助は、北辰一刀流開祖である千葉周作の玄武館道場の門弟となり、10代半ばで北辰一刀流目録を取得しました。

その後、深川にある北辰一刀流・伊東大蔵(伊東甲子太郎)の道場にも出入りするようになります。

そして文久2年のころ、近藤勇の天然理心流・試衛館道場に入門、まもなく代稽古を任されるほどの腕前でした。

愛用していた刀は「上総介兼重」と銘打たれた長刀(二尺四寸五分)で、その刀は新撰組隊士の中で最も高価な刀といわれていました。

池田屋事件での激闘で、上総介兼重は小さく8カ所・大きく4ヶ所の傷を負い刃こぼれが激しく、修復は不可能となってしまいました。

この刀は修復不可能とされたことで廃棄されたと見られ、残念ながら現存していません。

小柄で文武両道に秀でていた藤堂平助

藤堂平助の容姿は、美男子だったと記録に残され、立ち姿は「白梅のよう」とまで言われていました。

また体格は小柄と伝えられていることから、当時の成人男子の平均身長である155㎝よりも低かったと思われます。

そして愛刀の上総介兼重はおよそ73㎝あったとされることから、藤堂平助は自分の身長の半分くらいの長さの刀を自在に扱っていたと考えられています。

「魁先生」と呼ばれるほど勇猛な性格だった藤堂平助ですが、多少素行に問題はあったものの、世情や経済などにも精通しており、文武両道であったとされています。

坂本龍馬と時勢について議論したという記録も残っており、京都見廻り組などが坂本龍馬の暗殺を企てていると、坂本龍馬に忠告したという逸話も残っています。

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